2017年8月15日火曜日

茶の本


ファーマータナカの本棚。

今時外国人でも陶芸や盆栽を嗜み、歌舞伎や能狂言を鑑賞する。
日本に生まれながら、和の心の片鱗さえ知らずして往くであろう、赤面する程の情けなさ。
付焼刃だが、岡倉覚三(天心)の珠玉の文化論人生論に触れてみる、青空文庫(無料)で読めます。

(以下抜粋)
茶道は日常生活の俗事の中に存する美しきものを崇拝することに基づく一種の儀式であって、純粋と調和、相互愛の神秘、社会秩序のローマン主義を諄々と教えるものである。

茶道の要義は「不完全なもの」を崇拝するにある。いわゆる人生というこの不可解なもののうちに、何か可能なものを成就しようとするやさしい企てであるから。

茶道は、清潔さを強調する点で「衛生学」、質素なものに安らぎを見出す「経済学」、宇宙に対する人間の姿を定義する「精神幾何学」であるとされており・・・

おのれに存する偉大なるものの小を感ずることのできない人は、他人に存する小なるものの偉大を見のがしがちである。

茶には酒のような傲慢なところがない。コーヒーのような自覚もなければ、またココアのような気取った無邪気もない。

茶道は美を見いださんがために美を隠す術であり、現わすことをはばかるようなものをほのめかす術である。

宋の詩人李仲光は、世に最も悲しむべきことが三つあると嘆じた、すなわち誤れる教育のために立派な青年をそこなうもの、鑑賞の俗悪なために名画の価値を減ずるもの、手ぎわの悪いために立派なお茶を全く浪費するものこれである。

偉大な絵画に接するには、王侯に接するごとくせよ。

日本の古い俚諺に「見えはる男には惚れられぬ。」というのがある。そのわけは、そういう男の心には、愛を注いで満たすべきすきまがないからである。芸術においてもこれと等しく、虚栄は芸術家公衆いずれにおいても同情心を害することはなはだしいものである。

おのれを虚にして他を自由に入らすことのできる人は、すべての立場を自由に行動することができるようになるであろう。

全体は常に部分を支配することができるのである。

美を友として世を送った人のみが麗しい往生をすることができる。

人生の些事の中にでも偉大を考える。われわれは万有の中に自分の姿を見るに過ぎないのである。すなわちわれら特有の性質がわれらの理解方式を定めるのである。



0 件のコメント:

コメントを投稿

登録 コメントの投稿 [Atom]

<< ホーム