手水
ちょっと昔までは朝も早から、よく歩いていた。
よそんちの花、ゾンビの如き高齢者、ラジオ体操、昼夜逆転の酔客の声、人気のない寺社仏閣…と、これっぽっちも気にもしなかった足元に、無名の人々の営みや生き様や歴史があったんだなと改めて知って、毎朝ちょっとした感動を持ち帰ったものだ。
数年程前から始めたバイトからの流れで仕事らしきものをするようになり、早朝の徘徊はめっきり減った。
それでもよいこらしょっと、思い立つ時もある。
明らかに風が変わっていた。
そうやって季節を感じていたんだと、改めて思った。
土地柄久留米市には寺社仏閣が多い。
特に寺町と言われる界隈は、その一角に寺社が立ち並び、一種異界に迷い込んだような佇まいがある。
それぞれの寺社の境内の正面に鎮座する本堂は、それはそれで威風堂々としている。
そこを敢えてひょいと、手前に曲がってみるのである。
そこには小さな浄行菩薩堂があって、その先に清正堂があった。
その間に、水も枯れたちょっと大きめの手水(ちょうず)鉢があった。
今はコロナで感染を防ぐために、手水という作法が禁止されている寺社が多く、その代わりに鉢を花で飾る花手水も多いと聞く。
水も無い花も無いさほど威厳があるでもない石造りの龍神を今日は見つけた、そしてそこで水を想ったという話である。
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