花吹雪
母は99歳、施設で静かに日々を過ごしている。
肺の機能が徐々に低下し、今は医療用の酸素濃縮器が手放せない。
「気力があるなら、桜を見に行こうか。」
そう声をかけてみた。
携帯用の酸素ボンベに替えて、車椅子で外へ――
少し手間はかかるが、母の中で止まってしまった季節を、
ほんの少しでも動かしてあげられたらと思った。
施設は公園に隣接していて、よく整備された広い場所だ。
桜は多くはないが、毎年きれいに咲く。
窓からは春の気配が感じられ、体調がよければ散歩もできる。
一年前、この場所を選んだ理由のひとつでもあった。
けれど今は、自力で立ち上がることもできず、
窓を開けることも、ベッドのまま外を見下ろすことも叶わない。
少しだけ考えるような間があって、
返事は静かな「いいえ」だった。
気丈夫で我儘だった母が、
最近は面会に行くと、顔を見るなり涙を浮かべる。
「誰も会いに来てくれない」と言う。
父も兄もすでに亡く、
同級生や親戚、ご近所の顔ぶれも、もうほとんどいない。
日常的に訪ねる者は、私くらいのものだ。
(遠くに住む孫や曾孫が、年に数回顔を見せてくれるのが救いではあるが)
周りを見渡しても、
終末期の治療の話や看取りの話、
伴侶を施設に預けざるを得なくなった等という
人生の終盤の話ばかりが、
現実として聞こえてくるようになった。
人の一生とは、なんと儚く、そして切ないものだろう。
この週末、桜はきっと花吹雪になるだろう。

