季節(とき)の香りが好きだ。
ひょっとしてもう遅い?
跳び起きて、BIKE
を走らせてみる。
一週間程前所用があって、滔滔たる筑後川の流れを超えて筑紫平野のただ中の農道を車で駆け抜けた時、そこには一面黄金色の麦秋(ばくしゅう)の世界が拡がっていた。
第二十四候 麦秋至(むぎのときいたる)。
発泡酒の話ではない。
緑萌える中に、秋の枯れた色とその語感のアンバランスがいい。
多分昔より少なくなっているだろう二毛作の農家にとって、梅雨が迫る束の間の乾燥期、麦の収穫でおおわらわだったのだ。
そういえば、米の収穫後の田んぼでの、蓮華畑や菜の花畑が余り見られなくなったのも寂しい限りだ。
そもそも七十二候は、二十四節気と同じく古代中国で作られたものだから、日本の季節感とややずれるところがある。
(二十四節気が古代のものがそのまま使われているのに対し、七十二候は日本の気候風土に合うよう何度も改定されている)
それでも、この漢字数文字に宿る季節に対する感性に、同じDNAを感じずにはいられない。
話は飛ぶが、今度のコロナ禍での死者数が、欧米人に比べて日本をはじめ中国や韓国等の亜細亜人が圧倒的に少ないのもそのルーツに何らかの関係があるのではと思われる。
辿り着くと、9割方は収穫が終わり火が放たれた後だったが、辛うじて間に合った。
沖縄や宮崎では梅雨入りの声、今日も金色の麦が旨そうだ、ウッシッシッ。